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浦和地方裁判所 昭和58年(ワ)935号 判決

原告 服部記義

右訴訟代理人弁護士 花岡敬明

被告 原田晃

〈ほか一名〉

右両名訴訟代理人弁護士 高木壯八郎

主文

一  被告らは原告に対し、各自金八六一万二〇五一円及び内金七八一万二〇五一円に対する昭和五八年一〇月一四日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを四分し、その三を原告の負担とし、その余を被告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

(請求の趣旨)

一  被告らは原告に対し、各自金三六四五万二四八八円及び内金三三一五万二四八八円に対する昭和五八年一〇月一四日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

三  第一項について仮執行宣言

(請求の趣旨に対する答弁)

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

(請求原因)

一  本件事故の発生

(一) 日時 昭和五六年九月二五日午後六時四五分ころ

(二) 場所 埼玉県加須市大字花崎一二一四番地先交差点

(三) 加害車 普通乗用自動車(青五六と六五八六)

右運転者 被告原田晃

(四) 被害車 普通乗用自動車(熊谷五五り二五一七)

右運転者 原告

(五) 態様 信号機の設置されていない前記交差点において、直進中の被害車と右交差道路左方から右折のため交差点に進入した加害車とが衝突した。

(六) 傷害の部位・程度 頭部打撲、左耳挫創、両大腿部膝部打撲、頭蓋骨々折

二  責任原因

1 被告原田の責任

(一) 被告原田は加害車を所有し、これを自己のために運行の用に供していたものであるから、前記傷害により原告の被った損害につき自賠法三条による賠償責任を負う。

(二) また、被告原田の進行道路には交差点の手前に一時停止の標識が設置されていたのであるから、同被告は右方の安全を十分確認して交差点に進入すべきであったのにこれを怠った。本件事故は、右過失により惹起されたものであるから、同被告は原告の被った後記車両破損による損害について、民法七〇九条により賠償責任を負う。

2 被告会社の責任

(一) 被告会社は本件事故当時、被告原田を雇用し、自ら加害車について自動車保険の契約者となり、かつその事業のため被告原田に加害車を使用させていたところ、被告原田は被告会社の業務遂行中、前記過失により本件事故を惹起した。

(二) よって、被告会社は自賠法三条(前記人的損害について)及び民法七一五条(前記物的損害について)により損害賠償責任を負う。

三  損害

本件事故により、原告は次のとおり損害を被った。

1 治療費 金一一四万七〇五〇円

原告は、本件事故により前記傷害を受け、昭和五六年九月二五日から同年一〇月一五日まで久喜市内の新井病院に入院し、退院後、同年一一月一八日まで同病院に通院し、そのほか、同年一〇月二九日から同年一一月二〇日まで熊谷市内の大和鍼灸理療院において治療を受けた。

内訳 新井病院関係 金一一一万九〇五〇円

大和鍼灸理療院関係 金二万八〇〇〇円

2 付添看護費 金一四万七〇〇〇円

原告は、入院期間二一日中、意識障害(うち一〇日間は意識不明の状態)があったため、近親者二名ないし三名の付添を要した。そこで、右期間を通じて二名分の付添看護費(一名について一日金三五〇〇円)を請求する。

3 入院雑費 金二万一〇〇〇円

原告は右入院期間中一日あたり、少くとも金一〇〇〇円の雑費の支出を要した。

4 通院交通費 金二万五五八〇円

5 休業損害及び減収損害 金三二五〇万七二二二円

(一) 原告は、財団法人日本自転車振興会の行なう資格検定に合格し、昭和四一年一月一日同会に登録された競輪選手であり、本件事故の十数年前から登録選手中最上級であるA級一班(昭和五六年においては登録選手四〇八〇名中の一二〇名)にランクされ、優秀な競技成績を上げていたが、本件事故前の昭和五一年から同五五年までの各年の収入、経費所得及び所得率すなわち収入に対する所得の割合は、別表1のとおり(平均所得率は四三・七九パーセント)である。

(二) ところが、原告は、本件事故による受傷の後遺症のため昭和五六年中は競輪競技に出場できず、その後は懸命に復調に努め、昭和五七年には数回出場を試みたが、右後遺症による不調により途中で競技を中止するなど競技成績は事故前と対比して見る影もなく、昭和五八年は若干の好転が見られるものの、従前の成績と対比して大差があった。

(三) 原告の昭和五六年九月後半から昭和五九年六月までの損害額を算定すると、次のとおりになる。

(1) 昭和五六年九月後半から同年一二月までの損害

事故直前の昭和五六年一月から同年九月前半までの期間中の収入及び競輪出場日は別表2のとおりであり、一か月の平均収入は金二七〇万三四九四円であるが、これに別表1により求めた前記平均所得率〇・四三七九を掛けると、一か月あたりの所得は金一一八万三八六〇円となる。

計算式 2,703,494×0.4379=1,183,860

事故後の昭和五六年九月後半から同年一二月までの期間中、原告は本件事故による負傷のため全く競輪競技に出場できなかったが、事故がなければ右平均収入と同等以上の収入を得ることができたはずであるので、この間の損害は金四一四万三五一〇円を下らない。

計算式 1,183,860×3.5=4,143,510

(2) 昭和五七年一月から同年一二月までの損害

原告は、受傷後の身体の復調に努めたが、最上級の競輪選手としての事故前の状態に復帰することは困難であった。

右期間中の原告の収入及び競輪出場日は別表3のとおりであるところ、昭和五七年分の収支決算は経費が収入を上回り金一一三万九六七七円の赤字であり、所得は全くないから、(1)と同様の方法により算定すると損害は金一四二〇万六三二〇円を下らない。

計算式 1,183,860×1.2=14,206,320

なお、原告は昭和五七年一一月中に足の指を負傷し、一二月は欠場しており、右負傷がなければ一二月分としては金九六万八一七一円(昭和五七年中の収入総額金六七七万七二〇〇円を出場月数七で割った金額)程度の収入が見込まれたが、仮に右収入があったとしても、昭和五七年分の収支決算が赤字となる点は変わりがないので、右金額を請求する。

(3) 昭和五八年一月から同年一二月までの損害

原告は、前記受傷により、競輪選手として技能、体力の低下から脱出しえないまま右期間を経過した。右期間内における原告の収入及び競輪出場日は、別表4のとおりであり、収入は金一五七二万七四〇〇円である。そして、昭和五七年中の経費は金一一一四万八九八一円であったから、実質所得は金四五七万八四一九円となる。したがって、前記と同様の方法で算定した昭和五八年中の得べかりし所得金一四二〇万六三二〇円から右実質所得金四五七万八四一九円を差し引いた金九六二万七九〇一円が同年中の減収損害である。

計算式 14,206,320-4,578,419=9,627,901

(4) 昭和五九年一月から同年六月までの損害

原告の競輪選手としての身体の状態は、右期間中も事故前の状態に回復し得ないまま経過した。右期間における原告の収入及び競輪出場日は別表5のとおりであるところ、前記と同様の方法により算定した右期間中の得べかりし所得金七一〇万三一六〇円から右期間内に現実に取得した収入金五八七万七三〇〇円に前記平均所得率を乗じて求めた所得金二五七万三六六九円を差し引くと、金四五二万九四九一円となる。これが右期間中の減収損害である。

計算式 1,183,860×6-5,877,300×0.4379=4,529,491

6 慰謝料 金六〇万円

原告の負傷の程度、回復の状況、職業の内容等を勘案すれば、慰謝料は金六〇万円が相当である。

7 車両破損による損害 金一四九万九八六七円

原告運転の被害車は本件事故により使用不能の状態となり廃車とした。右車両は原告が事故少し前の昭和五六年七月三〇日に新車で購入したものであり、購入費用は金一七五万円(うち車両価格は一五四万九四五〇円)であるが、事故当時使用期間は二か月未満であったので、時価は金一四九万九八六七円を下らない。

計算式 1,549,450×0.968(定率減価償却残存率)=1,499,867

(以上1ないし7の合計金三五九四万七七一九円)

8 損害の填補 金一五七万九七〇〇円

原告は被告らから合計金一五七万九七〇〇円の支払を受けた。

9 弁護士費用 金三三〇万円

原告は、被告らが任意に損害の賠償をしないので、本訴の提起、追行を原告訴訟代理人に委任し、その手数料、謝金として判決認容額の一割を支払う旨を約した。その費用は金三三〇万円を下らない。

四 結論

よって、原告は被告ら各自に対し、損害賠償として、右三1ないし7の損害合計金三五九四万七七一九円から8の填補額金一五七万九七〇〇円を控除した残額金三四三六万八〇一九円に9の弁護士費用三三〇万円を加えた金員のうち、金三六四五万二四八八円及び右金員から弁護士費用を除いた残金三三一五万二四八八円に対する訴状送達の日の後である昭和五八年一〇月一四日から支払済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(請求原因に対する認否)

一  請求原因一の事実は認める。

二1  同二1(一)の事実は認める。同(二)の事実は否認する。

2  同二2(一)のうち、被告原田の過失は否認するが、その余の事実は認める。同(二)の主張は争う。

三1  同三1ないし7及び9の各事実は知らない。

2  同三8の事実は認める。

(被告らの主張)

1  原告の頭蓋骨骨折は後頭部の線上骨折で血腫や脳挫傷はなく外科的手術をすることなく治癒したものである。また、その他の傷害は打撲傷にすぎず、治療も新井病院に二一日間入院、三日間通院したことで後遺症もなく治癒している。この程度の傷害であれば、通常は三か月程度の休業損害が生じるのみであって、治療中止後の損害は生じないものである。したがって、原告の主張する休業、減収損害は本件交通事故と相当因果関係がなく、仮に因果関係が認められるとしても、それは特別事情による損害であって、被告らはその事情を予見することができなかったし、そのことについて過失もなかった。

2  原告は昭和五七年七月及び八月に競技を欠場している。これは、原告において、出場が可能であったのにもかかわらず、成績が上位でないとA級一班に残れず、欠場すれば規定によりA級一班に残れるということから、上位となる自信がなかったがために、自らの意思により欠場したものであり、本件事故による傷害のため欠場止むなきに至ったものではない。また、原告は昭和五七年一二月と昭和五八年一月にも欠場しているが、これは原告が自損事故で足の指を負傷したためであり、本件事故とは無関係である。

3  原告は本件事故当時三六歳であり、競輪選手としては高齢であった。A級一班登録の一二〇名の競輪選手の平均年齢は二八歳であり、四名を除いて原告より若年である。一二〇名の定員に対し毎年一〇名以上の新規A級一班登録選手が現われることから、毎年同人数程度のB級落ち選手が生ずるのは止むをえない。原告は、昭和五三年が獲得賞金成績のピークで、その後は、成績が下降していたし、年齢的にも端境期にきていたものである。原告がA級一班(昭和五八年四月からS級一班と改称され、同班の定員は一三〇名となった。)に残れなかったのは本件事故が主因ではない。

4  原告主張の平均所得率を所得計算の基礎に用いるのは正しくない。すなわち、獲得賞金の多い年度は所得率が高いし(昭和五二年度五二・四一パーセント)、その少ない年度は所得率が低い(昭和五四年度三七・八九パーセント、五五年度三八・五九パーセント、五八年度二九・一一パーセント)。記念レース、重賞レースで優勝すれば、高額な賞金が得られるが、その割に経費が増大するわけではない。獲得賞金が逓減すれば所得率も逓下すると考えるのが当然である。所得率を用いて計算するのであれば、昭和五四年、昭和五五年度の所得率を用いるのでなければ妥当性を欠く。

(抗弁)

一  過失相殺

1 本件事故のあった交差点付近の道路状況は次のようであった。すなわち、原告進行道路の車道幅員は六・九メートル、被告原田進行道路の車道幅員が七メートルで、いずれもアスファルト舗装してあり、時速四〇キロメートルの速度規制がなされていた。また、交差点角には、高さ一・九メートルのブロック塀があったうえ、本件事故当時は夜間で、かなりの降雨があったため見通しが悪い状態にあった。

2 右状況のもとで被告原田は、本件交差点を菖蒲町方面から久喜市方面に右折しようとしたが、その際、交差点手前二〇・八メートルの地点で右折の合図をするとともに、交差点進入の直前で一時停止をして右方を確認したところ、久喜市方面から進行してくる被害車を発見したが、両車両の距離が少なくとも五〇メートル以上あり、先に右折できるものと判断し、時速約一五キロメートルの速度で右折を開始した。

3 現場の道路状況は前記のようなものであったのであるから、原告としては、制限速度を順守するのは勿論のこと、交差点手前で徐行をし、前方左右道路の安全を確認しつつ走行すべき注意義務があった。しかるに、原告はこれを怠り、時速五〇キロメートルの速度で走行し、そのままの速度で交差点を通り抜けようとしたため、一三・五メートルの至近距離にきてはじめて同交差点に原告より先に進入し既に右折し終ろうとしていた加害車を発見し、急制動の措置をとったが間に合わず、自車前部を加害車の後部に衝突させ、その結果、衝突の衝撃で加害車を一五・五メートルも斜め前方に押し出し、自車も衝突地点から一四・四メートルの歩道上で漸く停止したものである。したがって、本件事故の発生については原告にも過失があったものであるから、三〇パーセントの過失相殺をするのが相当である。

二  一部弁済

被告らは原告に対し、原告が自認している請求原因三8の金員のほか、昭和五九年二月六日までに新井病院に対する通院治療費として金九万六〇四〇円を弁済した。

(抗弁に対する認否及び反論)

一1  抗弁一1の事実は認める。

2  同2の事実のうち、被告原田が交差点手前二〇・八メートルの地点で右折の合図をしたとの事実は知らない。被告原田が交差点手前で一時停止をして右方を確認したこと、同被告が交差点に進入直前の時点で被害車との距離が少なくとも五〇メートル以上あったこと及び加害車の右折時における速度が時速約一五キロメートルであったとの事実は否認する。加害車は衝突後一五・五メートル左斜の前方の道路上の畑に飛び込んで漸く停止しており、交差点の手前で一時停止をせず、かなりの速度で交差点に進入したことが明らかである。

3  同3の事実のうち、原告運転の被害車の速度が時速五〇キロメートルであったこと及び原告に過失があったとの事実は否認する。被害車の速度は時速四〇キロメートルであり、規制速度を遵守していた。原告は、交差点に進入する直前に交差点に進入してきた加害車を認めたものであり、その際両車両の距離は一三・五メートルであったのであるから、加害車との衝突を回避することは不可能であった。

二  同二の事実は知らない。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因一(本件事故の発生)の事実は当事者間に争いない。

二1  同二(責任原因)1(一)の事実は当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば、同(二)のとおり本件事故の発生について被告原田に過失のあった事実(なお、事故発生に至る経過等の詳細は後記四のとおり)を認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

したがって、被告原田は自賠法三条、民法七〇九条により本件事故によって原告が受けた人的、物的損害を賠償する責任がある。

2  同二2(二)のうち、被告原田に過失があったことは前記認定のとおりであり、その余の事実は当事者間に争いがない。

そして、右認定事実によれば、被告会社は加害車を所有しているものではないけれども、自動車保険の契約者になったうえ、その事業のため、被用者の被告原田に同車両を使用させ、その運行を事実上支配、管理し、運行による利益を享受する地位にあったものというべきであり、かつ本件交通事故が被告会社の事業の執行について発生したものであることは明らかであるから、被告会社は自賠法三条、民法七一五条により本件事故によって原告が受けた人的、物的損害を賠償する責任がある。

三  損害

1  治療費

《証拠省略》を総合すると、請求原因三1の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

右認定の事実によれば、原告主張の治療費合計金一一四万七〇五〇円は本件事故によって原告が受けた損害と認められる。

2  付添看護費

《証拠省略》並びに前記1で認定した事実を総合すれば、原告は本件事故による前記傷害のために二一日間入院し、そのうち、最初の一〇日間は意識障害が続き、無意識のうちに暴れることもあったこと、そのため、その間、最低二人の近親者の付添看護を必要としたこと、その付添看護費は一人一日当り金三五〇〇円が相当であったことが認められるが、その後の入院期間について付添看護が必要であったとの点については、この点に関する《証拠省略》だけでは当裁判所の心証をひくに足りず、他にこれを証するに足りる証拠はない。

右認定の事実によれば、付添看護費は入院日数二一日間のうち一〇日分の金七万円については相当であるが、その余の付添看護費に関する請求は理由がないというべきである。

3  入院雑費

原告が本件事故による受傷のため二一日間入院したことは、さきに認定したとおりであるところ、その間の入院雑費としては、少なくとも一日当り金一〇〇〇円、合計金二万一〇〇〇円を要したものと認めるのが相当である。

4  通院交通費

《証拠省略》を総合すれば、原告が前記新井病院に入院及び通院中、原告及び妻英子が同病院と自宅との間を往復するのに一回につき最低一五六〇円の料金で一四回タクシーを利用し、合計金二万五五八〇円を支出したこと、右病院との往復には交通機関を利用しなければならなかったことが認められ、右認定に反する証拠はない。しかし、右往復のため、タクシーを利用しなければならなかった必要性については、なんらの立証がないから、バス等一般交通機関の利用の場合を考慮にいれ、一回の最低タクシー代一五六〇円の三分の一に当たる五二〇円の一四回分合計金七二八〇円の限度で通院交通費の損害があったものと認める。

5  逸失利益

(一)  《証拠省略》並びに前記一で認定した事実を総合すると、次の事実が認められる。

(1) 原告(昭和二〇年八月五日生)は昭和三六年埼玉県内の高校に進学して自転車競技部へ入部し、国体に二度出場し、三年生のときの山口国体で優勝した。その後、日本大学に進学して自転車競技部に入部したが、昭和四〇年三月に同大学を中退したのち、同年五月競輪選手に合格した。そして、四か月の競輪学校を経て昭和四一年一月日本自転車振興会に選手登録をし、B級四班から始め、一年四か月後の昭和四二年五月から競輪選手中最上位であるA級一班(当時の級班別によるものであり、その下にA級二ないし五班、B級一、二班のランクがあった。昭和五八年四月からS級一ないし三班、A級一ないし四班、B級一、二班の級班に改定された。)に属するようになり、昭和五一年頃以降は概ね一か月二、三回、年間二二ないし二五回の割合で出走して稼働してきたものであり、なお、昭和五一年には日本選手権において優勝した。

(2) ところが、原告は昭和五六年九月二五日発生した本件事故により前記傷害を負い、そのため同日埼玉県久喜市内の新井病院に入院した。当初の一〇日ほど意識障害があり、意識回復後の同年一〇月一五日全身に筋肉痛が残存し、歩行するのがやっとの状態で同院を退院した(なお、原告は退院後も昭和五六年一一月一八日まで新井病院に三回通院した。)。原告は専門的治療をうけるべく同年一〇月二六日から順天堂伊豆長岡病院において脳外科医の診察を受けた。初診当時、血腫、脳挫傷はなかったが、後頭部に線状骨折があり、右手脱力感、頸部痛もあったので、同病院医師の勧めにより同月二九日から同年一一月二〇日まで埼玉県熊谷市内の大和鍼灸理療院で鍼灸治療を受けて再起を図り、練習に励んだが、昭和五七年一月下旬までは競技に出場できる状態にまでは回復しなかった。

(3) そうしたのち、原告は、やや復調した昭和五七年一月三〇、三一日に事故後初めて競技会に出場したけれども、右手脱力感、頸部痛が強く残存し、体調も不十分であったため、予選競走で五位、七位という下位の成績に終わった。ところで、昭和五七年当時の競輪制度の下では、級班別の決定、入れ替えについて、四か月内における出走回数が六回以下の場合には成績の序列による入れ替えをせずランクが下がらないことになっていた。そこで、原告はA級一班から二班へ格下げされるのを避けるため(両班の獲得賞金額には著るしい差がある。ちなみに昭和五八年においては約一〇〇〇万円の差があった。)その後二か月半ほど競技を欠場し、再起をめざして調整を続けた。その後、原告は同年四月一八日、一九日、五月二日、三日、六月三日、五日、七日、八日、二七日ないし二九日の競走に参加したが、成績は総じて芳しくなかった。もっとも、六月二九日の取手記念競輪で原告は優勝したが、常時A級一班の所属選手として相応しい成績を残せるようにするため、医師の指示に従って同年七、八月の競技には欠場して加療と練習を重ねつつ体調の回復に努めた。

(4) 昭和五七年九月に至り、原告には背部痛、頸部痛、右手脱力感が僅か残存してはいたものの、出走可能との医師の許可もでたので、同月以降の競技には本件事故前の頻度で本格的に出走し、別表3の競輪出場日に出場した。ところが、原告は同年一一月一〇日自転車練習場で左長趾伸筋断裂、左趾基節骨損傷の自損事故を起こし、同日から同月二四日まで埼玉県加須市内の病院に入院し、退院後も同年一二月二四日まで通院し、同日全治したが、右負傷後、昭和五八年一月三〇日の競技に参加するまでの間、欠場を余儀なくされた。それ以後における原告の競輪出場日は別表4、5のとおりであり、原告は、昭和五九年六月二日の高知準記念競輪において落車棄権しその後の六月中の競技に欠場した。

(5) ところで、原告は競輪選手としての収入を事業所得者として青色申告の方法により税務申告をしていたが、それによると、本件事故前の昭和五一年から昭和五五年までの各年度毎の収入及び経費は、別表1のとおりであり、また、昭和五六年一月から九月までの収入及び出場日は別表2のとおりであり、昭和五六年一月から昭和五九年六月までの各月毎の原告の得た収入すなわち取得賞金額は別表6のとおりであった。

(6) 更に、原告の昭和五一年一月から昭和五九年八月までの競技成績を登録選手競争成績明細表の競走得点の平均点で見ると、登録選手約四〇〇〇人中における原告の順位は別表7のとおりであった。右競技成績によれば、昭和五一年から昭和五四年までの得点順位はいずれも五〇位以内の高順位にあるが、昭和五五年に至り、三、四〇番位低落し、昭和五六年前半にやや持ち直している。本件事故後一年経った昭和五七年第三期は八一位であったが、その後は治療を要したこともないのに前記自損事故による左足負傷後の昭和五八年第一期一六八位、同第二期一七〇位、同第三期一八九位、昭和五九年度第一期二七二位、同第三期四〇四位と急速に低落した。その結果、原告は三七歳九か月となった昭和五八年第二期からS級二班(一三一位から二八四位まで)に、満三九歳となった後の昭和五九年第三期からS級三班(二八五位から四八六位)にそれぞれランク下げとなったものである。

(7) また、昭和五七年一二月三一日当時における登録選手の年齢別、級班別登録選手数一覧表によると、A級一班は一一九名で平均年齢は二八歳であり、高齢者は三七歳が一名(当時の原告)、三八歳一名、三九歳二名、四七歳一名であった(したがって、原告より年長者は僅か四名にすぎないことになる。)。さらに、昭和五八年一二月三一日現在の同一覧表によると、A級一班に相当するS級一班に所属する選手は一三〇名、平均年齢二七歳で、そのうち、高齢者は三九歳と四〇歳が各一名いるのみである(したがって、当時三八歳の原告より年長者は二名しかいないことになる)。加えて、A級一班ないしS級一班には年間約一〇名の新規の選手が上がってくるために、体力の衰え易い高齢者からA級一班ないしS級一班を脱落して行く傾向が看取できる。

以上の事実が認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(二)  そこで、右認定の事実関係のもとにおいて、逸失利益をどのように算出すべきかについて検討してみる。

(1) 得べかりし収入について

原告は前記のとおり競輪選手として素質に恵まれた優秀な選手であって、昭和四二年五月には最高位のA級一班に進み、本件事故当時も同班に所属して活躍していたものである。しかし、本件事故前の昭和五一年から昭和五五年までの収入をみると、昭和五一年から昭和五三年までの三年間は平均約三一〇〇万円の収入を挙げていたが、昭和五四年には二五〇〇万円台、昭和五五年には二四〇〇万円台と順次低落した。しかし、昭和五六年には本件事故の発生した九月二五日までにすでに約二三〇〇万円と収入を伸ばしていた。しかし、原告が本件事故当時すでに競輪選手としては三六歳という高齢者に属していることを考え合わせれば、原告が優秀な選手であることを勘案しても、昭和五六年中における収入をもって事故後も恒常的に継続するであろう得べかりし収入と推測するのは相当ではなく、昭和五四年から本件事故発生時までの二年九か月の平均収入をもって事故後の得べかりし収入の算定基礎と考えるのが相当である(なお、原告は本件事故により昭和五六年九月末開催の競輪に参加できなかったから、同年の収入は八・五か月分として計算すべき旨主張するが、原告本人の供述によれば、原告は良い成績を残すため月三回の出走をせず、月二回の出走にしてもらっていたというのであるから、同年九月中すでに三回出場していること前記のとおりである以上、原告の右主張は採用できない。)。

そうだとすれば、原告の得べかりし平均月収入は、金二二三万三一七一円(平均年収入金二六七九万八〇五二円)となる。

計算式(25,426,989/12+24,327,600/12+22,979,700/9)÷3=2,233,171(円未満切捨,以下同様)

(2) 平均年間経費及び平均年間所得について

原告が競輪選手としての前記収入を挙げるについては、これに必要な経費を要するから、所得を算定するに当っては、その経費を収入から控除することになるが、その経費が収入に対して占める割合は収入の多寡とは必ずしも比例せず、昭和五三年以降昭和五六年までは一四〇〇万円台から一五〇〇万円台に定着していること前記のとおりであるところ、前項で認定した昭和五四年から昭和五六年九月までの得べかりし平均収入(年額二六七九万八〇五二円)に対応する経費を算定するには、昭和五四年二五四二万六九八九円、昭和五五年二四三二万七六〇〇円の各収入中に占める経費(同五四年一五五二万七七〇三円、同五五年一四六七万三七九五円)を二分した金一五一〇万〇七四九円を平均年間経費(月額一二五万八三九五円)とみるのが相当である。なお、昭和五六年の経費として税務申告されている金一四四六万三四一一円中には、同年九月までの経費と右年間経費とが混在しており、昭和五六年九月までの収入に対応する経費を算定するのは困難であるから、昭和五六年の経費を前記昭和五四年から昭和五六年九月までの得べかりし平均収入中に占める平均経費の算定にあたり考慮すべきではない。

そうだとすれば、平均年間所得は、金一一六九万七三〇三円(月額九七万四七七五円)となる。この点に関し、原告は、得べかりし所得は昭和五六年一月から九月前半までの一か月当りの平均収入二七〇万三四九四円に昭和五一年から昭和五五年までの平均所得率〇・四三七九を乗じて得た一一八万三八六〇円と算定すべき旨主張するが、本件の場合、得べかりし所得の算定方法は前記のとおりとするのが相当と考えられ、原告主張の所得率を用いるのは相当でない。

(3) 労働能力喪失率について

次に、本件事故により、原告がいつまで労働能力の喪失または減少をきたしたかについて考えてみるのに、前記認定の原告の受傷の部位・程度、その治療及び回復の経過、医師の指示、原告がA級一班に所属する競輪選手であることの特殊性、事故後における出走状況、原告の年齢及び稼働意欲等諸般の事情を総合すれば、本件事故と相当因果関係のある原告の労働能力の喪失率(別表6の収入月別による。)を算定すると、事故翌月の昭和五六年一〇月から昭和五七年一月までは稼働不能として労働能力喪失率は一〇〇パーセント、同年二月から同年八月までは体調不十分なままの出場であって、若干の賞金は得られたものの、いわばA級一班に留るための治療を続けながらの試走期間ともいうべき性質を有するものであったと認められるから、喪失率は通じて七〇パーセントとみるのが相当である。しかし、同年九月からは、事故後すでに一年近くになり、医師の出場許可も受け、出場回数も事故前に復し、その成績も、同年三期(九月ないし一二月)は八一位となって、昭和五五年の第一期(一月ないし四月)の七五位に近接してきているのであるから、本件事故による労働能力の喪失もしくは減少はなくなったとみるべきである。もっとも、原告が昭和五七年一二月、昭和五八年一月に欠場し、同年二月から一二月までの成績が低迷を続けていること前記のとおりであるが、このような経過を辿ったことについては、昭和五七年一一月一〇日の自損事故による負傷、これによる入院及び通院治療並びに原告の高齢化による体力の減退、若手選手の台頭等のいわば複合的な原因によることを否定し得ないから、本件事故に基因する労働能力の喪失もしくは減少とは認め難いというべきである。

なお、被告らは、治療中止後の休業損害が本件事故と相当因果関係がない旨主張するが、右主張は前記認定に照らして採用し難く、また、右損害をもって特別事情による損害とする旨の被告らの主張も、不法行為を原因とした労働能力喪失による逸失利益は、まさに事故があれば一般に生じるであろう損害にあたり、通常損害というべきであるから採用しない。

(4) 右(1)ないし(3)の認定、判断に基づいて逸失利益を算定すると、次のとおりとなる。

(イ) 昭和五六年一〇月から昭和五七年一月まで

右期間における逸失利益は、得べかりし平均年収から平均年間経費を控除した平均年間所得の四か月分であって、その数額は金三八九万九一〇一円となる。

計算式 (26,798,052-15,100,749)×4/12=3,899,101

(ロ) 昭和五七年二月から同年八月まで

右期間における逸失利益は、年間平均所得の七か月分に労働能力喪失率七〇パーセントを乗じて得た金額ということになるから、その数額は次の計算式Aのとおり金四七七万六三九八円となる。なお、原告は昭和五七年二月から八月までに合計金二二四万三八〇〇円の収入を得ているが、右収入から経費相当額一二六万四三八五円を差引いた所得相当額九七万九四一五円は右期間中の残存労働能力(三〇パーセント)の範囲内の所得であること次の計算式Bのとおりであるから、右収入は控除すべきものではない。

右によれば、逸失利益の合計は金八六七万五四九九円となる。

計算式A (26,798,052-15,100,749)×7/12×0.7=4,776,398

計算式B (26,798,052-15,100,749)×7/12×0.3=2,047,028……残存労働能力による所得相当額,2,243,800-(2,243,800×15,100,749/26,798,052)=979,415……現実収入の所得相当額

6  車両破損による損害

《証拠省略》を総合すれば、被害車である原告所有の普通乗用自動車は原告が昭和五六年七月三〇日トヨタオート東埼玉株式会社から金一五四万九四五〇円で新車として購入したものであり、本件事故当時使用期間は二か月未満で、走行距離は二〇五四キロメートルであったこと、本件事故により前部が大破したなどしたため経済的にみて修理がほとんど不可能となり、原告は廃車にしたこと、但し、被害車の損害保険会社の依頼したアジヤスターによる調査によれば、あえて修理するときは部品代八一万七一四〇円、工賃五一万九一〇〇円等で合計一三四万一二四〇円を要する見積りであることが認められ、他に右認定に反する証拠はない。

右認定の事実によると、車両損害は被害車の修理価格と同額の金一三四万一二四〇円と認めるのが相当である。

なお、原告主張の定率減価償却残存率による損害算定方式は税務ないし企業会計上の減価消却率によっているにすぎないものであり、被告らが右方法によることに異議がない等特段の事情の認められない本件においては、採用することは相当でないというべきである。

7  慰謝料

前記認定の原告の受傷の部位、程度、入通院期間、本件事故が原告の競輪選手としての競技成績に及ぼした程度その他本件に顕われた諸般の事情を勘案すれば、本件事故によって原告が受けた精神的苦痛に対する慰謝料は金五〇万円と認めるのが相当である。

四  過失相殺について

1  《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  本件事故現場はほぼ東西に走る道路とほぼ南北に走る道路の信号機の設置されていない交差点内であり、原告が被害車を運転して西進した道路は、西側に幅員約二・〇メートルの歩道を有する幅員六・九メートルのアスファルト舗装された直線の車道で、これと交差する被告原田が加害車を運転して北上した道路は、歩車道の区別のない幅員七・〇メートルのアスファルト舗装された直線の車道であり、いずれも時速四〇キロメートルの速度規制がなされていた。

(二)  被告原田の進行道路には一時停止の標識があり、本件交差点へ進入する直前の右側には、原告進行道路左側に沿って高さ一・九〇メートルの民家のブロック塀が設置され、原告の進行方向からは左方、被告原田の進行方向からは右方の見通しがきかない状況にあった。本件事故当時は夜間であり、かなりの降雨のために見通しが悪い状況にあった。

(三)  右のような道路状況のもとで、被告原田は菖蒲町方面から久喜市方面に右折しようとし、交差点手前二〇・八メートルの地点で右折の合図をするととに交差点進入の直前で一時停止をして右方を確認したところ、久喜市方面から時速約五〇キロメートルの速度で進行してくる原告運転の被害車を同車の前照灯によって発見した。右発見当時、両車両の距離は約三九メートルしかなく、したがって、被告原田の運転する加害車が原告の被害車より先に右折することは著しく困難であったにもかかわらず、同被告は安全を十分に確認することなく、先に右折できるものと軽信し、時速約一五・〇キロメートルの速度で右折を開始した。ところが、同被告が一時停止した地点から六・〇メートル交差点へ進入したとき、既に被害車は右方一〇・五メートルの地点まで接近していたもので、被告原田は急制動の措置をとったが、加害車の右側面部分と被害車の前頭部分が衝突したものである。他方、原告は進行道路が時速四〇キロメートルの速度規制がなされているのに、時速約五〇キロメートルで進行し、急制動の措置をとらないまま本件事故に至った。

大要以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

2  右認定の事実によれば、本件交差点は原告及び被告原田双方からみて、他方の進行道路の見通しが困難な信号機による交通整理の行なわれていない場所であり、かつ事故当時は夜間であったうえに、かなりの降雨のため視界が悪かったのであるから、原告としては本件交差点を通過するに際して前方を注視しつつ徐行して進行すべきであるのにこれを怠り、漫然と制限時速を約一〇キロメートル超えた時速約五〇キロメートルで通過しようとした過失があった。しかし、本件交差点は、被告原田の進行道路に一時停止の標識があるうえ、同被告は一時停止をして右方から進行してくる原告車を認めており、かつ右折が著るしく困難な状況にあったにもかかわらず、漫然と自車が被害車が交差点に進入するよりも先に右折できるものと軽信して進行した重大な過失があった。右認定の本件事故の経過を考慮すると、双方の過失の割合は被告原田が八〇パーセント、原告が二〇パーセントと認めるのが相当である。

そうすると、前記三の損害額の合計は金一一七六万二〇六九円であるから、二〇パーセントの過失相殺による減額をすると、金九四〇万九六五五円となる。

五  損害の填補及び一部弁済

原告が被告らから金一五七万九七〇〇円の支払を受けたことは当事者間に争いがなく、《証拠省略》を総合すると、右のほか、原告の新井病院に対する治療費として昭和五八年五月一一日までに自動車損害賠償責任保険から金一万七九〇四円の支払がなされている事実が認められる。しかし、被告ら主張のその余の弁済については、これを認めるべき証拠はない。

したがって、右弁済額の合計は金一五九万七六〇四円となり、前記損害額金九四〇万九六五五円から、右弁済額を控除すると金七八一万二〇五一円となる。

六  弁護士費用

《証拠省略》によれば、原告が弁護士である原告訴訟代理人に本訴の提起、追行を委任し、判決認容額の一割の報酬を支払う旨を約したことが認められるところ、本件事案の難易度、審理経過、本訴認容額等にかんがみれば、本件事故と相当因果関係のある弁護士費用の額は金八〇万円と認めるのが相当である。

七  結論

以上の次第であるから、本訴請求は原告が被告ら各自に対し、金八六一万二〇五一円及び弁護士費用金八〇万円を除いた金七八一万二〇五一円に対する訴状送達の日の後であることが記録上明らかな昭和五八年一〇月一四日から支払済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で認容し、その余は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言について同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 糟谷忠男 裁判官 榎本克巳 市村弘)

〈以下省略〉

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